楔 -6-
ハーレイ、お願いだから目を開けて。
こぼれる涙は、彼の甲を濡らしていく。
擦過傷と火傷の面積は背中の広範囲にわたっていたが、指に触れる脈はしっかりとしていた。
やがて、かすかなうめき声とともにハーレイが目覚めた。
「う…っ…ブルー…?」
僕は、まだ目を開けることもできずにいる彼の手をそっと握り返した。
ここにいるよ。
「…すみませんでした…あなたを、こんな部屋に入れてしまうなんて。あの光を見るまで、気がつかなかった」
うっすらと瞼があがったその表情は、身体の痛みと後悔の念で歪んでいた。
「僕が勝手に入ったんだ。君は悪くない」
おもわず彼から視線をそらした。謝らなくてはいけないのは僕なのに、それすら口にできなかった。
青い光が、僕らの周りをゆらゆらと揺れている。まだ意識が朦朧としているハーレイには、僕の思念はすくいとられてはいない。
今、この手を離せば。まだ間に合うかもしれない。
そんなことができないことは自分が誰よりもわかっているのに、まだ現実にあがなおうとするおもいがよぎる。
このサイオンシールドが消えれば、ハーレイは窒息してしまうのに。
そして僕のこころに共鳴するように、青い炎のような姿になったサイオンは、明るさを増すとハーレイをより強い光で包んだ。
やがて焦点の合っていなかった瞳が僕をとらえると、そこには明らかに複雑な色が浮かんでいた。
意識の覚醒とともに、僕のおもいが彼に流れこんでいったのだ。
愛しくて。傍に居てほしくて。焦がれるほどに触れたいおもい。
そして、同じぐらい切ないおもい。決して望んではならない感情を必死に抑えようとしたこと。
彼が何かを言う前に、僕は俯いたまま自分から口を開いた。
「ハーレイすまない。自分でもどうしたらいいのか…わからないんだ。アルタミラで彼女のおもいが僕の中に入ってきたときから…彼女が君をおもうこころが、自分の中でどんどん大きくなって。どこまでが彼女の記憶で、どこからが自分の意思なのかさえわからなくなった。だから君から遠ざかろうとした。傍に居るのが、辛くてたまらなかったんだ。それなのにこんな酷い目に遭わせてしまった」
彼の目を見て話すことができなった僕は、意を決しなんとか顔を上げた。
「僕を軽蔑しても、嫌っても構わない。これからは地球を目指すことだけを考えて生きる。仲間を…君たちを、何があっても護る。誓って言う。だから…どうか協力してほしい。たった9人しかいないミュウだから…君の力が必要なんだ」
それなのに繋がれた手から流れこむ感情は、こんなにも彼を求めている。「仲間」だなんて、口にした言葉とは全く違う。そんな浅ましい自分が恥ずかしくて。
ハーレイは、僕のことを見つめていた。
彼はほとんど感情を遮蔽していないはずなのに、僕の乱れた思念では何一つ彼の感情はわからなかった。
どのぐらい経ったのか。やがて彼は、ゆっくりと言った。
「あの星を脱出することができたのは…ブルー、あなたがいたからです。皆を導き、護り、未来のなかった私たちにテラを目指すという指標を与えてくれた。
そして…たった9人、ではありません。9人も、いるのです」
僕は彼の目を見返した。どんな言葉でも、受け入れるつもりだった。
「このステーションで、当面は飢えることなく過ごせるでしょう。今は皆、生きるだけで精一杯かもしれません。だがこれからは変わる。
自分を取り戻しながら、協力したり反発しあって小さな社会ができていく。ただミュウというだけで、9つの人格がすべて理解しあいやっていくというのはどんなテレパシー能力があっても難しい。
この隔離された小さな世界の中で、私たちは今まで以上にあなたにリーダーとして生きることを強要していくだろう。それは、あなたにすべてを背負わせるのと同じことだ。
それでも…私には、私たちにはあなたの代わりはできない」
僕は精一杯の笑みを浮かべた。
「かまわないよ。覚悟ならとうにしている。そのために僕は存在しているしこの身体を使うつもりだ」
そう、僕には失うものなんて何もない。
過去もない。慕情なんて必要ないんだ。
皆を導き護り、テラを目指す。それが僕の生きる意味のすべてだ。
ハーレイ。今までに君がくれたやさしさに、僕は何も返すことはできないけれど。君のことを護りたいとおもう気持ちに嘘はないよ。それだけは…信じてほしい。
僕のおもいはゆれる青いサイオンへと流れこんでいった。
「ブルー。私のドームを外してくれませんか」
突然ハーレイが言った。ヒビが入っているのでよく見えないのだろう。
僕は傷口に触れないようにそっと彼を抱き起こすと、繋いだ手はそのままに何とか片手で割れて役に立たなくなったそれを取った。
ハーレイは開けた視界に眩しそうに目を細めたあと、僕の目を真っ直ぐに見た。とても真剣な、でもあたたかい眼差しで。
そして
「私の家族になってください」
と言って微笑んだ。
「…ッ…!ハーレイ…?!」
「あなたが辛いときには傍にいる。どんなことがあっても、できる限りあなたを護る。嬉しい時には共に喜び、悲しいときにはそれを半分引き受けます」
頭が真っ白になる。そして次には、自分の中でたくさんの感情がいっせいに跳ねた。
「どうして……」
君は、僕にやさしくしてくれるの?
言葉をくれるの?
あのひとのおもいが、僕の中に残っていたから?
どうして。どうして。
言葉にできなかったおもいは、制御の利かないサイオンを伝わりすべて彼に届いてしまう。
そして遮蔽をしない彼の言葉通りの思念が、触れている指先から流れ込んでくる。
何の迷いも、てらいもなく。
「アルタミラであなたは、自分には人間としての記憶がまったくない、そして誰かを好きになる気持ちは自分にはわからないからうらやましいと言ってさみしそうに笑いましたね。
でも今のあなたのおもいは、人間なら誰もが持つ感情です。無条件に愛し愛されたい。親が子を、子が親をおもうように。
焼かれた記憶は戻せなくても、あなたはその感情を取り戻したんですよ」
ハーレイは、僕の手を握り返した。
「あなたがいのちを懸けて叶えてくれた、私の望み。もうこの世には居ない彼女のおもいを私に伝えてくれた。
今度は私が、あなたのためにいのちを懸けてはいけませんか。どんなに非力でも、あなたを護りたいとおもってはいけませんか」
彼は寄りかかるようにして、僕を抱きしめた。
背中にまわされた手から彼女の姿が、ハーレイのこころを伝わって流れ込んでくる。
『ウィル』
これは…あのひとの思い出だ。とても美しい声で、彼の名を呼ぶ。
そして甘く、やさしく包むように言葉がこぼれた。
『…あなたの家族になりたい』
彼女は、耳まで頬と同じばら色に染めて。
『あなたとずっとずっと一緒にいたいから』
その微笑みと声が、白い光の中に溶けていく。
それが、彼女の願い。
僕の胸に刻まれたのは、彼女の生きた証。
痛みを伴う楔なんかじゃなかった。
失われた過去をおもうとき。本当は誰からも愛されたこともない、必要とされない子どもだったかもしれないという考えにずっと苛まれてきた。
からっぽの自分。それでも生きることを辞めない自分。だけど、何も知らないでいる間は耐えられたんだ。
でも誰かをおもうこころを知ってしまったあの日からは、身体中がバラバラになりそうなほど苦しくて。
愛されたことのないミュウの僕を、自覚してしまったから。あんな風に誰かを求めたことなんて、求められたことなんてなかったから。
今、この年下の青年が与えてくれる愛情に身とこころをゆだねながら、僕はあふれる涙を止めることができなかった。
そして、人間は嬉しいときにも涙が出ることを初めて知った。
僕の失われた記憶は、決して戻ることはないけれど。誰かを愛するおもいは、今この胸に確かに宿る。
「ハーレイ…きみが、君が僕の家族なら」
「はい?」
腕を緩めて、彼が僕の顔を見た。
「君は、僕の何になるんだい?」
彼は少し目を見開くと、
「そうですね…老けた弟でしょうか」
と真顔で答えた。
「いきなりそんな風にはおもえないよ…」
僕は濡れた頬を押しつけるようにして、厚くて大きな胸にしがみついた。そうですねと、ハーレイが笑う。
なんてあたたかいのだろう。頬を伝う涙さえ、心地よい熱を孕んだまま服へと落ちていく。
「…全部」
「え?」
「…君が、全部になってくれ」
親もきょうだいも、みんなハーレイでいいよ。
触れた指先から、ありったけのおもいを込めて伝えた。
「…はい」
ハーレイは僕をぎゅっと抱きしめた。優しく、頭を撫でて背中をさすってくれる。
今の君は、僕の父親なのかい?
しばらくそうしてくれたあと、彼は僕を優しく身体から離すと、止まらない涙が流れる両頬にそっと口づけを寄越した。
おやすみのキス。
ただいまのキス。
愛してるのキス。
皆同じなんですよと、頬から流れ込んできた思念が教えてくれた。
僕も、自分では初めてのキスを彼の頬に送る。
『あいしてる』
君に、伝えたかったんだ。
ずっと。ずっと。
大切な僕の家族。
そして、僕たちは思いきり笑った。ハーレイは傷が痛くて声が出せなかったけど。
「ブルー、私たちの船に…帰りましょう。皆もきっと心配しています。これからはずいぶん忙しくなりますよ?とりあえずはシップを着岸させないと」
よろけるハーレイを支えながら、しっかりと手を繋いだ僕たちは、なんとかポートへ移動すると力を合わせてハッチを開けていった。
利き手の使えない僕が、自力で歩行できないハーレイを支える。彼が、一つずつロックを解除していく。無重力で本当によかったなんて軽口をたたきながら。
ようやく着岸ポートのハッチをすべて開けると、予想以上に近くに待機している連絡船が見えた。ブラウもなかなかやるじゃないか。
「…レイ、ブルー!大丈夫か…?」
ゼルの思念が届いた。僕たちは大きく手を振りながら、応える。
「ここにいるよ!これからは僕らの仮住いはこのステーションだ!」
さあ、どうやって船まで飛ぼうか。何も考えていなかったけれど、今度は上手く飛ぶ自信があった。
だってハーレイ、君がいる。さっきだって僕らは二人でピンチを乗り越えてきたんだから。
この状況を楽しんでいる僕を、君はどうおもうのかな。ちらりと顔を見上げた。
「本当に…仕方のないひとだ!」
眉根に少し皺をよせながら、それでも彼は微笑んでくれた。
ねえハーレイ。
僕たちの未来に、光は差すのだろうか。
そこに希望は、挫けずにあるだろうか。
ミュウである僕らの歩いていく道は、決して平穏なものではないけれど。
僕はもう、ひとりじゃない。だから俯かずに進んでいく。
繋いだこの手を、絆を護るために。
この胸に宿る、いのちの楔を地球へと伝えるために。
僕たちの長い旅は、まだ始まったばかりだ。
(終)
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