白い奇蹟 −epilogue−

 

風が、頬を撫でていく。

これは自然の、そう大気を流れる風。
ずいぶん久し振りに思う。思わず息を大きく吸い込んでみる。

草の香り、土の匂い。
人間は、僕たちミュウはこれを忘れてしまっていたのだろうか。
こんなにもあたたかく、やわらかなものに包まれていながら、その価値も分からぬままに争いと破壊、搾取を繰り返した果てに、人類はこの荒廃した地球を作り出してしまったのだ。

 


僕は目を開けた。
目の前には、何もない青々とした草原が遥か彼方の地平線まで続いている。

 

ここは…どこだろう?

記憶をたどる。確かに僕は地球へと降り立った。
そして…その喉元に、僕たちの、おもいを…。
…誰のおもい?僕たちの?

「僕たちって、誰だ?」

急に意識が遠のいていく。
風が、風が僕のマントを流してはためく。
だがその音さえ聞こえない。たしかに視界の片隅には深紅のたなびきが見えるのに、それはどこか遠くに映る夕焼けの照り返しのように、美しくて実態を伴わないものだった。

声が、出せなくなっていた。
気がつくと、僕の視界は白く、ぼんやりとした光に満たされていて、思わず前へと伸ばした右手すらもう見えなくなっていた。

このまま、消えていくのだろうか。唐突に心にひらめいた。
ここがどこだったのか、それも思い出すことができなかったけれど、実感として自分というかたちが崩れていくのを感じた。
でも、少しも恐怖や後悔はなかった。むしろ、すべてが終わることに安堵した。

僕は、何のためにここにいたのだろう。
何のために生きてきたのだろう。

もう思い出すことはできなかったけど、それがひどく痛みを伴っていたことだけは分かっていた。
自分の内側から、外に向かって何かが流れ出ていく。
さっきまで自分の周りを吹き抜けて行った風は、今は僕の中を何もないところを抜けていくように通り過ぎていく。
音も、五体の感覚すらもうないのに、それを理解した。

明るいのか、暗いのか、それもわからないような空間に浮いていた。
足が見えず、大地を踏みしめた感覚もない今、浮遊しているという表現しかできない。

僕というかたちが、失われる。
もう何も感じられない瞳を、意識として閉じた。

 

すると、突然声がした。

「ジョミー」

その声は、僕の心に直接響き渡る。
一瞬にして、流せるはずのない涙が感覚のない頬を塗らす。
止めどなくあふれる涙は、やがて触覚と体温を伴い、失われたはずの僕の輪郭と五感は再びかたちを取り戻した。

 

「おかえり。長い旅だったね」

僕は、声がすると思われる方向へ両手を伸ばした。
混乱した思考の中。
ただひとつの、心の一番深いところに押し殺していたおもい。
決して触れるまいと誓ったこと。

まだ僕は夢をみているのだろうか。
消え逝こうとするその刹那でさえ、僕の心は彼を追っているのか。

すると、すぐ目の前で懐かしい声がした。

「僕はここにいるよジョミー。ずっと、君を待っていた」

次の瞬間、すこしひんやりとした、細く長い指先が僕の涙をすくい取る。
そしてあの紅い瞳が、僕の目をまっすぐに見つめていた。

「君は、ずっと僕を呼んでくれたね。
きみがミュウとして目覚めたあの空でも、そして、僕がナスカで果てたその後も」

「ブルー…本当に、ブルーなの?」
僕はずっと心におもい描いていた、最後に見た姿のブルーを見つめ返した。

「君のおもいが、こうして僕をここに留まらせたんだよ。
だからこのかたちを残したまま…君がいつか、やってくるのを待っていた」

「ここは…死後の世界?」
ブルーは、少しだけ微笑んで言った。
「それは少し違う。ここは、ひとのおもいが作り出した空間だから。
ひとがひとをおもう強い気持ちが集まり、この世界を生み出している」

「君が」
ブルーが、僕の頬を両手で包んだ。

「君が望んだから。そして僕も」
ブルーの両目から、一すじの涙がこぼれた。

「君に忘れてほしくないと、望んだから」
「また会えたんだよ」
彼は、僕の補聴器に手をかけてそれを外した。

「もう、これは必要ないからね」
そして静かに、足下へと落とした。

「おもいを継いでくれてありがとう。地球へ辿り着いてくれてありがとう」
僕の目からはずっと涙があふれていて、目の前がにじんでいて、でも少しでも目をそらしたらブルーが消えてしまいそうで。
頭の中はもう真っ白で、ただこの時が永遠に続いてほしいと強く願った。

「ジョミー、心配しないでいいよ。君がそう望むのなら」
僕の心を読んだのか、ブルーが言った。

「ブルー」
僕は、おそるおそる彼の背中に手を回した。
霞のように、そこにない幻だとしたら。
頬を包んだ彼のぬくもりは感じられたけれど、この手で触れることにはまだ恐れがあった。
そっとまわした腕に、華奢で引き締まった筋肉を感じる。

「ブルー!」
僕は、思わず回した腕に力を込めて叫んだ。
「もう…悲しまないでくれる?もう…一人で護ろうとしないでくれる?」

そして、腕をゆるめて彼の瞳を見返した。
「もう…どこにも行かないで」

ずっと、言葉にできなかった。

『もうすぐ僕は燃え尽きる』
そうあの時、あなたは言った。目の前にある別れが前提の出会いだった。
自分のことなど何も省みず、ただミュウのために生きたひと。そして、最後の命のともしびさえも、そのためだけに燃やし尽くしてしまったひと。

僕には、なにもできなかった。

だから、僕はあなたのおもいを、そして悲しみを継いだ。ソルジャーとして生きることで、あなたに応えようとした。
でも。ここがひとのおもいの作り出した世界なのだとしたら。

儚くて、でもとても強くて、それでもいつまでかたちを留められるかも分からないこの場所で、あなたが僕を待っていてくれたから。
僕は、おもいを言葉にしてあなたに伝えるよ。
たとえ今この瞬間に、僕が失われてももうかまわない。
だって、あなたがここに居てくれたから。ただそれだけで、僕が生きてきた意味があるから。

ブルーは、困った顔をしている。でも、目は今まで見たどんなブルーよりも穏やかに、やさしく笑っていた。
「…どこにもいかない。ずっと君のそばにいる」

そういうと、両手で僕の髪をくしゃくしゃにした。
「一緒に行こう」

ふわりと身体が浮いて、ブルーの藍色のマントが宙にたなびく。
しがみついたままの僕を、ブルーがそっと抱き寄せた。

「本当に立派になったけど、ジョミーはやっぱりジョミーのままだね」
「どういう意味?」
「泣き虫で、やさしくて…ちょっぴり甘えん坊なところ」
「なんだよそれ!」

怒って言い返そうとする僕を、細いくせに力強い腕が身動きさせてくれない。
そして耳元で、懐かしいあたたかい声が僕にささやく。

「君が、君に戻れたんだ。よかった」
「ブルー…」
「君は、僕との約束を守るために・・・本当に辛いおもいをさせてしまったね」
ブルーは、僕の記憶を読んでしまったようだ。でも、僕自身にはもうはっきりとした意識はなかった。

肩に回された手のひらから、ブルーの温かい思念がゆっくりと僕の中へと流れ込んでくる。
それはとてもなつかしいようで、あいまいな輪郭を持った彼のおもい。
ここにいると、ひとはすべての記憶を手放して魂の風になって解き放たれるのだという。かたちを留めていたブルーですら、そのほとんどの記憶を手放していること。本当に純粋な、僕をおもってくれていた感情だけが、彼の中に積もっていたこと。

そして僕とブルーを繋ぎとめていた、おもいという名の「錨」のことを。

 

「ブルー、僕も記憶があいまいになってきているんだ…いろいろなことが…思い出せなくなって」
紅い瞳が僕の顔をのぞきこんだ。その視線を受けとめる。
「辛いことも、でもきっと忘れたくないこともあるはずなのに…」
ブルーは、穏やかにいった。
「ジョミー、僕らはおもいだけの存在だから」
「君はもう自由なんだよ。さあ、瞳を閉じてごらん」

僕は目を閉じた。薄れゆく記憶の中に、小さな光がたくさん見える。その中には大好きだったひとたちの笑顔がある。
でも、もう名前を思い出すことができなかった。光もほほえみも、みんな流れ星のように、頭上から足もとへと流れていく。
きらきら、きらきらと流れていく砂のようになって、それが放つ色は僕を温かい光で満たしていく。

ひとつひとつのかたちは、もう残ってはいないけれど。まぶたの裏には、まるで星のように淡い光がまたたき続けていた。

「この世界は永遠には続かない」
突然ブルーが言った。

その声に目を開けると、眼下にはいつのまにか草原の海原が広がっていた。遠く地平線の彼方は、ほんのりと明るくゆらめいている。
「それでも、ひとのおもいは消えることはない。だれかの意識が存在する限り」
ブルーの身体は、サイオンを発している時とは違ったやわらかく淡い光につつまれはじめていた。

「ブルー?」
おもわず不安になって、彼の名を呼んだ。

「ジョミー。僕たちが、どこからきて、どこに還っていくのかわからないけれど」
ブルーは僕の手を、やわらかく握りしめながら言った。
「君に会えた。君が僕という存在を望んでくれた。それだけで充分だ。ありがとう」

僕は、ブルーの手をきつく握り返した。
「僕も・・・あなたに会えた。僕を受けとめてくれた。とても嬉しかった」
僕たちは両手を繋いだまま、ゆっくりと空へと昇っていく。気が付くと、僕の身体も淡く光りはじめていた。

この身体が、かたちをとどめている間は。
一緒にこの世界を見届けにいこう。
そして、いつか。
すべてがこの風に流されていく時には。
一緒に、すべてを包みこむ光になろう。

指先から絶え間なく流れこんでくる、ブルーのあたたかいおもい。
僕のおもいも、あなたに伝わっているのかな。
すると返事の代わりに、指先を強く握りかえされた。

「…君の地球を見せてくれないか」
僕は笑って答える。
「もちろん。あなたが恋焦がれた星は、とても綺麗だよ」

かつてブルーがアタラクシアで見せたように、僕は青い星のイメージをおもい描くと、指先へと意識を集中させた。
すると眼下に刹那、あの青く輝く星が広がった。遥か下にたなびいていた青い草原は、今は水を湛えたあの地球へと変わっていた。
思わずブルーの顔を見ると、彼の目は驚きで大きく見開かれている。

「これが…地球」
僕は興奮と感動でほんのりと朱に染まったブルーの横顔と、地球が映りこんで青く輝く彼の瞳を見た。

あなたも、きっと。
本当のブルーに、戻れたんだね。

僕は、ひとのおもいが見せてくれる地球に、深く、深く感謝した。
そしてこの風景が、彼を安らぎとあたたかい光で満たしてくれますようにと、心から願った。

ここに、僕らがこうしていられる間は。どうか、消えないで。
このひとに、もっとこの地球を見せてあげたいんだ。

小さな子どものような、青く澄んだ眼差しを宿したブルーの顔を横目で見ながら、僕は彼の手を離さないようにとそっと包んだ。

(終)

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