楽園の実

 

ついてこないでいいのに…と、瑠璃はおもった。

まだこの船にきてから日が浅い幼い少女の、完全に遮蔽できていないこころの呟きが聴こえてしまったシドは、内心苦笑しながらも表情を変えることなく歩き続ける。
八歳で博士号まで修得し、直後にミュウという診断を受けたその少女は、家族や生活に係わる記憶は大部分消去されていたが、身につけた学術的な知識は殆ど残っていた。
大人ばかりのブリッジでレーダ観測のポジションに付き、他の子どもが教授の授業を受けている午前中だけ働いている。
にこりとも笑わず、ブラウ航海長を質問責めにしている姿しか知らなかったシドは、彼女に子どもっぽい思考があるとわかっただけでもほっとした。
 
瑠璃がお見舞い、シドは日報の報告という名目の元に向かっているのは、キャプテンの私室。
昨日のシフト交代の時にはいつもより眉間の皺が深いぐらいにしか見えなかったハーレイだが、実際にはかなり酷い状態だったようで今朝からは自室で休んでいるのだ。
そして瑠璃には、もう一つ理由があった。ニナに会いたくなかったのだ。

「瑠璃ちゃんてすごーい!」
「瑠璃ちゃん遊ぼう!」

あまり同年代の少女と接してこなかった瑠璃には彼女がひどく幼くおもえたし、実際どんな風に接したらいいのかがわからなかった。
自分を子ども扱いしないで接してくれるブリッジクルーと話す方がよっぽど楽だった。
このままではいけないとはおもう。限られた船内で暮らしていく以上、自分と同世代の子どもたちともうまくやっていかなくては。
周りの子どもは大人に混じる瑠璃を不思議な目で見るだけだが、ニナだけは毎日毎日瑠璃に話しかけてくる。
それが嬉しくもあり、イライラしてしまうことも多かった。
そして今朝、二人はとてもささいなことでケンカをした。
瑠璃は、ごめんなさいの言葉を言えなかった。

別に、私だけが悪い訳じゃないけど…でも言い過ぎたかな…相手は子どもなのに…。
自分だって十分子どもなのだが、瑠璃は真剣に悩んでいた。
そこにキャプテンが高熱を出して倒れるという、珍しい事態が起きた。
多少は心配もしたけれど、瑠璃はニナに会うのが少しでも先になるなら…と、見舞いの役を買ってでたのだ。
クルーの皆は、かわいい見舞い客にきっとキャプテンも喜ぶでしょうと笑顔で送り出してくれた。
高熱の原因は風邪ではなく、過労による扁桃炎とのことなので、瑠璃にうつる心配はないからだ。

「…お見舞いなら何か持っていこう」

ブリッジを出てから一言も口を利かなかったシドに話しかけられて瑠璃は驚いた。
この人、本当に何を考えているのかわからないわ。
そしてその思念がシドに全部伝わってしまっていることに瑠璃はまだ気が付いていない。

シドは、公園へと向かうと色づいていたリンゴの中から特に赤いものをいくつかもいだ。
黙って瑠璃に持たせると、また先に歩きだす。
一応瑠璃の歩幅に合わせているシドは、少し先を行きながらも瑠璃に言われたことを考えていた。
「今さら何か話しかけても…無駄か」

そんな無言が数分続き、結局二人は一言も会話することなくハーレイの自室前に到着した。
訪問はメインコントロールルームに伝えてある。扉に二人で手を触れれば、サイオン探知機が反応してロックが解除されるはずだった。

「…手を」
 シドに言われて瑠璃は腕を伸ばそうとしたが、小さな手はリンゴを落とさないようにするので精一杯で。
それに気付いたシドがいくつか持とうとすると、何故かドアが自然に開いた。
コントロールルームが開けてくれたのだろうか?シドは瑠璃の手にまたリンゴを戻した。
最初からあなたが持ってくれていたら…という言葉をいう前に、
「お見舞いにきたのは君だから」
と言われてしまうと、自分の思念がシドに漏れていたことに瑠璃は気付いた。
そして恥ずかしさに赤くなった顔を逸らすと、黙って先に部屋へと入った。


初めて見る船長の部屋は、二人の想像を裏切るようなこじんまりとして質素なものだった。
二間続きなので、シドのような一般成人ミュウに与えられている個室よりは広いが、内装にも大差はない。
入口前には、機能的に配置された書き物机と現在位置を示す立体銀河のホログラムが瞬いている。
そして寝室のある奥の部屋の暗がりからは、青白い光が漏れていた。


「キャプテン、シドです。失礼します」
声をかけたが返事はない。二人は、静かに開いたままの扉に近づいていった。
そこで二人が目にしたのは、ベッドに横たわり微動だにしないキャプテンに額を寄せ、まるで発光体のように淡い輝きを放つマント姿の青年だった。
瑠璃は初めて会ったが、彼が他でもないソルジャーブルーだとすぐにわかる。
纏う空気は瑠璃の体感温度が下がるほどに澄みきっていて、こちらを振り向いたその眼差しは、一瞬で観る者の心を奪うように紅く潤み美しい光をたたえている。
同じ人間とは思えない神々しさに、瑠璃は言葉を失った。

「ああ、見つかってしまったね」
 唇に指を当てると、ソルジャーブルーがささやいた。
「二人とも、僕がここに来ていたことは秘密にしてくれたまえ。特にハーレイが知ったら僕に小言を言うからね」
 そして幼い少年のような無邪気な笑みをつくる。瑠璃はその仕種とくるくる変わる美しい表情に呆気に取られた。
「はい!誰にも言いません!」
すぐ脇でシドが答える。瑠璃も慌てて、誰にも言いませんと答えた。
「ありがとう。彼はとても心配症だから」
そう言うとかがみこんでいた身体を起こし、二人に向き合った。
マントが音もなく、まるで水が流れるようにソルジャーブルーの動きに合わせてたなびく。
「君たちはハーレイのお見舞いに来たの?」
はいと、瑠璃が答える。
「日報の報告に来ました」
と、シドは言った。

ブルーは真っ直ぐにシドに視線をあわせると微笑みを浮かべた。
シドは言い淀んだあと、観念したように言った。
「…本当は日報は、航海長に見てもらえばよかったんです。でもキャプテンが心配で…ブリッジ内では私情を挟まない方なので、ここに来る理由が欲しかったんです」
「そう。彼を心配してくれてありがとうシド」
ブルーの言葉に、真っ赤になってうつ向く。この人にもそんな感情があるのかと、瑠璃は思わず彼の顔を見返してしまった。
「ハーレイがあまりに熱に浮かされていたので、今眠らせたところなんだ。
僕の力は、眠りを与えたり記憶を奪うことはできても、こうして病や怪我に苦しむ者を治すことはできない。
人を癒す力があったなら、もっと早く人類と手を取り合えるはずなのに」

少し寂しそうに、それでも笑みを浮かべたソルジャーブルーに、瑠璃もシドも言葉にならないおもいが胸一杯にわき上がった。
明日死ぬかもしれない恐怖と絶望の中から救い出してくれた、希望の光。
ただあなたが居てくれるだけで、どれだけミュウが勇気づけられているか…!
だがシドは唇を噛み、ブルーを見つめ返すことしかできなかった。

瑠璃は、あまりにも眩しく手の届かない、見ることも叶わない処にいるとおもっていたソルジャーブルーの優しさと悲しみに触れ、
どうしたら自分のおもいを伝えられるかを一生懸命に考えていた。
そして思わず口から出た言葉は、
「あの…リンゴお召し上がりになりませんか?」
だった。

伏し目がちな、腕に抱えた実よりもずっと紅い宝石のような瞳が少しだけ驚きで見開かれると、瑠璃は大急ぎで言葉を続けた。
「シドさんが公園で、もいでくれたんです。キャプテンのお見舞いなんですけど、こんなにたくさんあるんです。みんなで食べたら…きっと、おいしいです…」
途中から自分でも何を言っているのかわからなくなってきて、瑠璃はソルジャーブルーを見つめたまま開きかけた口を閉じた。

ソルジャーブルーは、本当に輝くような笑みを浮かべて言った。
「ありがとう瑠璃。でもね、僕は思念体だから食べることはできないんだ。 それはハーレイが起きたら、擦りおろして食べさせてあげてくれないか」
そこで二人は初めて、ソルジャーブルーが思念体だったことに気付いた。
ほのかに輝く身体は、サイオンの光だったのだ。

「余ったリンゴは、他の子どもたちと食べなさい」
ふわりと瑠璃の頭にブルーが手を乗せた。
実際には触れていないはずなのに、それがとても暖かくて心地よくて、瑠璃はうっとりとした気持ちになった。
「遥か古の地球に暮らした人々の伝記では、「楽園」にあるその実を食べた人間は追放されたらしい。
でも、このシャングリラのリンゴは大丈夫。昔、僕が植えたんだ。とても甘くておいしい」
瑠璃は、腕の中の赤い実がとても大切なものになった気がした。
「…どうやら、彼の目覚めが近いようだ。二人とも、これからもハーレイをよろしく頼むよ」
そう言うと、藤色の残像を残してソルジャーブルーの姿はかき消えた。

その後まもなく目覚めたキャプテンは、枕元に立つシドと瑠璃を見てとても驚いた。
そして瑠璃が擦りおろしたリンゴを入れたコップを差し出すと、高熱で苦しそうな表情を歪ませ何かを言いかけた。
だが思い直したように首を横に振り、初めて見る笑顔を浮かべると
「ありがとう」
それだけをいって、黙って二回お代わりをした。

お見舞いの後、瑠璃はリンゴを両手に抱えてニナに会いに行った。
「一緒に…食べない?」
そして、朝はごめんねと小声で付け足した。瑠璃が言うのと同時にニナが抱きついてくる。
その拍子で腕から落ちごろごろと転がるリンゴ。
あっという間に集まってきた子どもたちが食べはじめ、結局瑠璃もニナも一口も食べることができなかった。 
けれど二人はこの日、もっと大切なものを手に入れることができたのだった。

瑠璃は、ソルジャーブルーにこころの中でそっとお礼をいった。
そしてソルジャーブルーの秘密を必ず守ると、子どもごころに誓いを立てたのだった。

 


「本当はあの時…ソルジャーブルーは私たちに秘密を知られたかったのかもしれない」
リンゴの皮を剥きながら、瑠璃は横になっているシドに話しかけた。
トォニィがソルジャーになって、もう一年近くになる。

大多数の同胞を地球で失ったシャングリラには、今では代わりに多くの人間たちが暮らしていた。
生き残ったミュウの殆どは、自室を人間に提供し、宿主の居なくなった空き部屋へと移り住んだ。
たとえ自分のサイオンでは残されたおもいを読むことができなくても。
失われたいのちを、絆を少しでも感じたいとミュウは願う。

そしてシドは今、ハーレイの部屋で暮らしていた。
今日は、珍しく風邪を引いて寝付いた所に、瑠璃が公園のリンゴを持ってやって来たのだった。
「ソルジャーブルーがご自分のことを話して下さったのは、あの日が最初で最後だったから」
あの後瑠璃は、ソルジャーブルーはとても衰弱しており、殆ど青の間で眠ったままの状態だということを知った。
思念体でキャプテンを見舞うことなど、かなりのサイオンを使わなければできないことだったのだ。

でも「秘密だよ」と笑った顔は本当に嬉しそうで。
あの日、姿を隠そうとおもえばいくらでも出来たはずなのに、自分たちにハーレイを頼むと、キャプテンを肩書きではなく名前で呼んでいたソルジャーブルー。
あの時はミュウの長としてではなく、ひとりの人間としておもいを伝えてくれたのだと、今でも瑠璃はおもうのだ。

シドは黙ったまま、ベッドの上でゆるゆると上体を起こした。
さすがに瑠璃もこの男の寡黙さに慣れたので、そのまま話を続ける。

「トォニィをみていて…気付いたの。ソルジャーになるって、皆を導くって己を捨てることよ。
ナスカの後にジョミーが変わってしまった時はとても悲しかったけど…今ならわかる気がする」
そして、擦りおろしたリンゴを入れたグラスを、そっと手渡した。

「ありがとう」
短く答えたシドの、あの日のキャプテンと同じ言葉に瑠璃は思わず涙ぐみそうになる。
それには気がつかなかったかのように、シドは黙って一口すくって食べた。
「甘い…おいしい」
口数の極端に少ない彼の素直な喜びの言葉に、瑠璃は微笑んだ。
「そう、よかった。早く元気になってくださいね」
そして立ち上がりかけた瑠璃に、シドが声をかけた。
「俺たちには、ソルジャーやキャプテンの残留思念を読む能力はない。
でも、このリンゴの甘さやだれかをおもうこころを、トォニィや地球の子どもたちに伝えることはできる」

「シドさん…」
 瑠璃の目から、大粒の涙がこぼれた。
「闘いは、終わったんだ」
そう言って微笑んだシドの目も、発熱だけではないおもいで潤んでいた。

そういえば、このひとの笑顔を見るのも初めてかもしれないと、瑠璃はおもった。
あの樹には、ソルジャーブルーのおもいが宿っているのかもしれない。
そんなおとぎ話のようなことをふとおもいつく。

シドさんが元気になったら、あのしかめっ面のソルジャートォニィを連れて公園に行こう。
そして、一緒にリンゴを食べてみよう。
今度はあの子たちに私たちが伝えられることが、きっとあるはずだから。

遠い昔の言い伝えも、この樹を植えてくれたひとのことも。
一緒に実を食べたトォニィのパパとママのことも。
たくさん、たくさん話をしよう。
本当は公園を通りかかるだけで今でも泣きそうになるけれど。
今度おもい浮かべるのは、あの笑顔にしよう。


この船の樹に実るのは、シャングリラという楽園の実なのだから。

 

(終)

☆BACK☆[ILLUST/NOVELS]