「君のおもいを(上)」(SAMPLE)

 

子どもたちの歌が聴こえる。


こんな限られた世界――シャングリラという箱舟の中でも、彼らは明るく笑い、そして穏やかに成長していく。
ノイズが入ったため外していた片方の補聴器に、ハーレイは再び耳を寄せた。


船内時間で深夜帯のシフト勤務を終え、今はまだ早朝と呼べる時間帯。長い一日の最後の日課、青の間に向かっているところだった。
扉まであと僅かな距離で感じた補聴器の異変は、シャングリラには珍しい思念電波の混線だったようだ。
疲れきった身体、そしてこころに響く無垢な歌声と旋律にハーレイは表情を緩ませる。

 

アタラクシアを経ち早ニ年の月日が過ぎようとしていた。


ソルジャーブルーの意識が深い眠りについている間隔は、既に睡眠と呼べる範疇を越えていた。
意識がまったく戻らない期間には、僅かな生理的身体反応すらない日もある。
元々低い彼の体温は更に下がり、呼気を感じる様に手をかざさなければ、青白い光の中ではまるでよく作られた人形のようにも見えた。
そんな彼に、ハーレイは毎日欠かすことなく一日の出来事をキャプテンとして報告する。
ソルジャーブルーが、まだ元気にアタラクシアを飛び回っていた頃からの習慣を変える気はなかった。
彼は生きているのだから。

しかし、ここ最近の瞼すら震わせることのないすっかり血の気を失った白い顔を見ていると、気丈なハーレイですら時に言葉を失ってしまう。
青の間を毎日訪れるジョミーの表情にも、不安の色が滲むことが多くなってきた。
かろうじてその感情をあの強い思念に乗せて船内に撒き散らすのを抑えているのが、日中一番近くに居るハーレイには痛いほどわかる。

だが、何かを言ってやりたいとおもうこころはいつも喉元で押し留めていた。
彼が本当に望んでいるのは、一時の気休めなどではなく…ソルジャーブルー、あなたの言葉とおもいなのだから。

 

**********

 

「ハーレイ」
自分を呼んだブルーの瞳には、もう意思が戻ってきていた。


「僕の中は本当に空っぽなんだ。僕には……成人検査以前の、自分が人間だったときの記憶がない。
だから、君たちが…うらやましいよ。どんなにおぼろげでも、両親や好きだったひとの記憶があるのだから。
その感情がどんなものなのかさえ、いくら君たちの記憶を体験しても僕にはわからないんだ。
だが壊れた精神を宿したこの身体は、生きることを止めない。僕は…ミュウは、何の為に生まれてきたんだろう?」


そう言って、強く目を閉じた。


「サイオンドリームで…皆のおもいでを見るのは辛くないですか。その…肉体的な面ではなく、精神的な面で」

自分にはない、理解できない感情を日常的に体験することは彼にとって苦痛ではないのだろうか。ハーレイは、問わずにはいられなかった。


「君はやさしいね」


ブルーは、皆まで言わなかったハーレイのこころを感じていた。痩せた顔の中で特に目立つ紅い瞳の奥には影が差している。
それでも唇の端を上げ、彼は無理な微笑みを作った。


「たしかにうらやましくて、歯がゆい気持ちにもなるよ」


でも―――


頭の中に、ブルーの声が直接響いた。まるで耳元で囁かれているような、とても自然な音だった。


『いつか、皆の記憶を見ているうちに―――1つぐらいは何かをおもい出せるんじゃないかって―――おもうんだ―――』


それは、この絶望の中に一番長くいるブルーの、ささやかな希望だった。
彼の望みを叶えてやりたい。ハーレイは、こころからそうおもった。

 

 

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